1181年(治承5年)1月5日壬子

関東勢が紀伊から京都に入ったとの噂が立つ。こうした動きに対処するために、平家は家人を海岸配置して警備した。そうした家人の一人の伊豆江四郎は志摩に派遣された。

すると、本日、熊野衆徒が菜切島に集まって伊豆江四郎を攻め、伊豆江四郎主従は敗走。伊勢太神宮が鎮座している神道山を越えて宇治岡にまで逃れた。これを波多野小次郎忠綱と甥・波多野三郎義定ら主従八騎と合戦となり、江四郎の子息二人を討ち取った。忠綱・義定は、源氏の古くからの郎党で相模の波多野次郎義通の所領を相続して志摩に住んでいた。波多野右馬允義経は頼朝の挙兵に応ぜず、頼朝に弓を引いて討伐された。しかし、忠綱・義定の両人は源氏への奉公を果たした。

関東の健士等南海を廻り、花洛に入るべきの由風聞す。仍って平家家人等を所々の海浦に分ち置く。その内、伊豆の江四郎を差し遣わし志摩の国を警固す。而るに今日熊野山の衆徒等、件の国菜切島に競い集まり、彼の江の四郎を襲い攻めるの間、郎従多く以て疵を被り敗走す。江の四郎太神宮御鎮座の神道山を経て、宇治岡に遁れ隠れるの処、波多野の小次郎忠綱(義通二男)・同三郎義定(義通孫)等主従八騎、折節その所に相逢い、忠を源家に抽んぜんが為、合戦を遂げ、江の四郎の子息二人を誅すと。忠綱・義定は、故波多野の次郎義通が遺跡を相伝し、当国に住す。右馬の允義経は不義有って、相模の国に於いて誅罰を蒙ると雖も、この両人に於いては、旧好を思うに依って勲功を励ます所なり。

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