和田義盛斃れる
その状に云く、
きんへんの物に、このよしをふれてめしくすへきなり。わだのさゑもん、つち屋のひやうゑ、よこ山のものともむほんをおこして、きみをいたてまつるといへとも、へちの事なきなり。かたきのちりちりになりたるを、いそきうちとりてまいらすへし。
五月三日 巳の刻 大膳大夫
某殿 相模の守
同時に大軍を浜に向けて合戦す。義盛重ねて御所を襲わんと擬す。然れども若宮大路は匠作・武州が防戦し給う。町大路は上総三郎義氏、名越は近江守頼茂、大倉は佐々木五郎義清・結城左衛門尉朝光等、各々陣を張るの間、融らんと擬するに拠所無し。仍って由比浦並びに若宮大路に於いて合戦時を移す。凡そ昨日よりこの昼に至り攻戦やまず。軍士等各々兵略を尽くすと。御方の兵に由利中八太郎維久と云う者有り。弓箭の道の譽れに足るものなり。若宮大路に於いて三浦の輩を射る。その箭に姓名を註す。古郡左衛門尉保忠が郎従両三輩この箭に中(あ)たる。保忠は大いに瞋りて、件の箭を取り射返すの処、匠作の鎧の草摺に立つの間、維久義盛に與せしめ、御方の大将軍を射奉るの由を披露すと。鎮西の住人、小物又太郎資政義盛が陣に攻め入り、義秀が為に討ち取らる。これ故右大将家の御時、高麗を征せらるるの大将軍なり。また出雲守定長が折節祇候するの間、武勇の家に非ずと雖も、殊に防戦の忠を尽くす。これ刑部卿頼経朝臣の孫、左衛門佐経長が男なり。また日光山別当法眼弁覺(俗名大方余一)が弟子同宿等を引率し、町大路に於いて、中山太郎行重と相戦う。小時、行重逃れ奔ると。長尾新六定景が子息太郎景茂・次郎胤景等、義清・惟平に相逢い闘戦す。而るに胤景の舎弟の小童(字江丸、年十三)長尾より馳参し、兄の陣に加わり武芸を施す。義清等がこれを感じ、彼に対し箭を発たずと。義清・保忠・義秀等、三騎轡を並べて四方の兵を攻む。御方の軍士退散すること度々に及ぶ。仍って匠作小代八郎行平を以て使者と為し、法華堂の御所に申されて云く、多勢の恃み有るに似たりと雖も、更に凶徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきかと。将軍家は太だこれを驚かしめ給い、防戦の事、猶以て評議せられんと擬す。時に廣元朝臣は政所に候ぜしむるの間、その召し有り。而るに凶徒が路次に満ち、怖畏無きに非ず。警固の武士を賜り参上すべきの由これを申すに依って、軍士等を遣わさるるの時、廣元(水干葛袴)参上するの後、御立願に及ぶ。廣元は御願書の為筆を取る。その奥に御自筆を以て二首の歌を加えらる。即ち公氏を以て、彼の御願書を鶴岡に奉らる。この時に当たり、大学助義清が甘縄より亀谷に入り、窟堂前の路次を経て旅の御所に参らんと欲するの処、若宮赤橋の砌に於いて流れ矢の犯す所、義清の命を亡ぼす。件の箭が北方より飛び来たる。これ神鏑の由謳歌す。僮僕彼の首を取り寿福寺に葬る。義清が当寺の本願主たるに依ってなり。これ岡崎四郎義實が二男、母は中村庄司宗平が女なり。建暦二年十二月三十日大学権助に任ず。法勝寺九重の塔造営の功と。酉の刻、和田四郎左衛門尉義直(年三十七)伊具馬太郎盛重が為に討ち取らる。父義盛(年六十七)殊に歎息す。年来、義直を鍾愛せしむに依って禄を願う所なり。今に於いては、合戦を励ますに益無しと。声を揚げて悲哭し東西に迷惑す。遂に江戸左衛門尉義範が所従に討たるると。同男五郎兵衛の尉義重(年三十四)・六郎兵衛の尉義信(二十八)・七郎秀盛(十五)以下張本七人共伏誅す。朝夷名三郎義秀(三十八)並びに数率等海浜に出て、船に棹さし安房国に赴く。その勢五百騎、船六艘と。また新左衛門尉常盛(四十二)・山内先次郎左衛門尉・岡崎余一左衛門尉・横山馬允・古郡左衛門尉・和田新兵衛入道、以上大将軍六人は戦場を遁れ逐電すと。この輩悉く敗北するの間、世上無為に属く。その後相州、行親・忠家を以て死骸等を実検せらる。仮屋を由比浦の汀に構え、義盛以下の首を取り聚む。昏黒に及ぶの間、各々松明を取る。また相州・大官令仰せを承り飛脚を発せられ、御書を京都に遣わす。両人連署の上、将軍家御判を載せらるる所なり。これ義盛伏誅せしむと雖も、余党紛散せしめ、未だその存亡を知らず。凡そ京畿の間、骨肉有り。不日に羂策の義無くんば、後昆の狼唳を断ち難からんや。
御書の様、
和田左衛門尉義盛・土屋大学助義清・横山右馬允時兼、すへて相模のものとも、謀叛をおこすといへとも、義盛命を殞しをはんぬ。御所方別の御事なし。しかれとも親類おヽきうへ、戦場よりもちりちりになるよしきこしめす。海より西海へとおちゆき候ぬらむ。有範・廣綱おのおのそなたさまの御家人等に、この御ふみのあんをめくらしてあまねくあひふれて、用意をいたしてうちとりてまいらすへき也。
五月三日 酉の刻 大膳大夫
佐々木左衛門尉殿 相模守
また昨今両日合戦を致すの輩、多く以て匠作の御亭に参る。亭主盃酒を件の来客に勧め給う。この際仰せられて云く、飲酒に於いては永くこれを停止せんと欲す。その故は、去る朔日夜に入り、数献会有り。而るに暁天(二日)義盛襲来するの刻、なまじいに以て甲冑を着し、騎馬せしむと雖も、淵酔の余気に依って忙然たるの間、向後は断酒すべきの由誓願しをはんぬ。而るに度々相戦うの後、喉を潤さんが為水を尋ねるの処、葛西の六郎(武蔵の国の住人)小筒と盃とを取り副えこれを勧む。その期に臨み以前の意忽ち変りこれを用ゆ。盃に至らば景綱(尾藤次郎)に給う。人性時に於いて定まらず。比興の事なり。但し自今以後、猶大飲を好むべからずと。
[参照]和田塚