足利高氏と誕生から鎌倉幕府滅亡

生誕地は、綾部説(京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の三説がある。貞氏には嫡子に長男の足利高義がいたが早世したので尊氏が家督を相続することになる。難太平記によれば、尊氏の祖父である足利家時は、三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃しており、家内の北条氏に対する反感意識の中、尊氏は育ったと考えられている。元服の際に鎌倉幕府執権北条高時より諱(いみな)を賜って「高氏(たかうじ)」を名乗る。

1331(元弘元)年、後醍醐天皇による二度目の倒幕計画が発覚し、笠置において挙兵する元弘の変が起こると、尊氏は鎌倉幕府から派兵を命じられ、天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る赤坂城の攻撃に参加する。この時、出兵は父貞氏が没した直後で、尊氏は派兵を辞退するが、幕府は妻子を人質として重ねて派兵を命じたため、尊氏は幕府に反感を持つようになったと言われている(古典太平記)。幕府軍の攻撃の結果、天皇はじめ計画に関わった公家の日野俊基や僧侶など多数が幕府に捕えられ、天皇は翌年隠岐島に流される(元弘の乱)。幕府は大覚寺統の後醍醐に代えて持明院統の光厳天皇を立てる。

翌1333(元弘3年/正慶2)年、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、船上山に篭城すると、高氏は西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに上洛を命じられる。しかし、名越高家が、赤松円心に討たれると高氏は、後醍醐天皇の綸旨を受け天皇方に寝返り、所領である丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で鎌倉幕府に対する兵を挙する。近江の佐々木道誉などの御家人を従え、京都の六波羅探題を滅亡させる。上野国の御家人である新田義貞も挙兵し、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉幕府を滅亡させた。この時、高氏の側室の子である竹若丸が混乱の最中に殺されている。

尊氏は鎌倉陥落後に細川和氏・頼春・師氏の兄弟を派遣して、義貞を上洛させ、鎌倉を足利方に掌握させている。

出所:wikipediaより竹内信春改変,GFDL


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