建武の新政から南北朝動乱
鎌倉幕府の滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、尊氏は官位と所領を与えられ、さらに天皇の諱(いみな)の「尊治」から一字を賜り「尊氏」と改名した。尊氏は建武政権では足利家の執事職である高師直・高師泰兄弟などを送り込み、弟の足利直義を鎌倉将軍府執権とするのみで、自身は役職には就かずに政権と距離を置いており、このため征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉において開幕するつもりであったと考えられている。この状態は「尊氏なし」と言われた。
後醍醐が北畠顕家を鎮守府将軍に任じて幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じさせて奥州鎮定に向かわせると、尊氏は関東統治を名目に、直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させて開幕の布石としている。後醍醐天皇の皇子であり同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、護良は尊氏暗殺を試みるが、尊氏側の警護が厳重で果たせなかった。1334(建武元)年、尊氏は、実子恒良親王を皇太子としたい後醍醐の寵姫阿野廉子と結び、後醍醐とも確執していた護良親王を捕縛し鎌倉の直義のもとに幽閉させる。
1335(建武2)年に信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。尊氏は後醍醐に征夷大将軍の官を望むが得られず、勅状を得ないまま鎌倉へ進発し、後醍醐は止む無く征東大将軍の称を与えている。尊氏は直義の兵と合流し、相模川の戦いで時行を駆逐して鎌倉を奪還する。
直義の意向もあってそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め京都からの上洛の命令を拒み、幕府設立の既成事実化をはじめる。尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏するが、後醍醐は逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせる。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義、高師直など足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は建武政権に反旗を翻す事を決意する。尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都奪回をめざす。この間に後醍醐天皇に退けられた持明院統の光厳上皇に懇願して逆賊の汚名を免れる工作をしている。建武2年から翌年にかけての京都占領をめぐる戦いで、尊氏は奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞に敗れ、京都奪還を諦めて赤松則村(円心)の進言により九州に下る。
九州では長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像の宗像大社宮司宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後、糟屋郡(現在の福岡市東区)の多々良浜において行われた多々良浜の戦いで宮方の菊池武敏を破り勢力を建て直した尊氏は、京に上る途中で光厳上皇の院宣を掲げ、西国の武士を傘下に集めて再び東上する。湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破って京都を制圧する。
京へ入った尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れる。和議に応じた後醍醐は光厳上皇の弟光明天皇に皇位を譲り、建武式目17条を定めて幕府の基本方針を示し武家政権の成立を宣言する。一方後醍醐は三種の神器を帯して京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った神器は偽であると宣言して南朝を開く。