観応の擾乱から尊氏晩年

1338(延元3年/暦応元)年、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ(在職 1338年 - 1358年)正式に幕府(後に室町幕府と呼ばれる)を開く。翌年には後醍醐天皇が吉野で死去し、個人的親近感を持っていたとされる尊氏は、慰霊のための天龍寺造営費を捻出するために、元に対して天龍寺船を派遣している。

足利政権において尊氏は政務をほとんど直義に任せており、足利家家臣の高師直ら反直義派と直義派の対立が激化し、観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展する。尊氏はあくまで傍観者的立場を取るが、師直派にかつがれる形となる。1349(正平4年/貞和5)年、襲撃を受けた直義が尊氏の邸に逃げ込み、師直の兵が尊氏邸を包囲して直義の引退を求める事件が発生し、直義は出家し政務を退く。直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたという説もある。

直義が退くと尊氏は嫡男義詮を鎌倉より呼び戻し、次期将軍として政務を担当させるべく上京させ、代わりに鎌倉公方として次男基氏を下し、東国統治のための鎌倉府を設置する。さらに尊氏の庶子で直義の猶子となっていた直冬が直義を助け反乱を起こす。1350(正平5年/観応元)年、尊氏が直冬討伐のために中国地方に遠征すると、直義は京都を脱出し南朝方に付き、桃井直常、畠山国清ら一部の譜代の武将たちもこれに従う。直義軍が強大になり、義詮が京を追われる劣勢になり、尊氏も直義に摂津国で敗れると、尊氏は高兄弟の出家を条件に直義と和睦し、1351(正平6年/観応2)年に和議が成立する。高兄弟は護送中に上杉能憲により謀殺される。

義詮の補佐として政務に復帰した直義に対して、尊氏・義詮はともに佐々木道誉が謀反を企てたとして出陣し、実際には道誉の討伐には向かわず南朝方と和睦の交渉をして、元号を南朝のものに統一させる「正平一統」を成立させる。ここでも、道誉と尊氏・義詮との間に密約があったものと思われる。さらに、危機を感じて京都を脱出した直義を駿河国薩たる山(静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などで戦って破り、鎌倉に幽閉された直義は1352(正平7年/観応3)年急死する。古典太平記は尊氏による毒殺ではないかと記している。

尊氏は、後醍醐の皇子宗良親王や新田義貞の子義興・義宗、朝敵免除を受けていた北条時行などの南朝方を武蔵国各地で撃破し、関東の南朝勢力を制圧すると、京都へ取って返し京都を奪回する。その後足利直冬は京都へ侵攻するが、結局直冬は九州へ去る。正平9年/文和3年(1354年)にも京都を南朝に一時奪われるが、翌年に奪還。尊氏は自ら直冬討伐を企てるが、1358(正平13年/延文3)年に京都二条万里小路邸で死去、享年54。直接の原因は史書によれば背中に出来たよう(腫物)と記録されている。

出所:wikipediaより竹内信春改変,GFDL


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