北条政村
1205年7月10日(元久2年6月22日) - 1273年6月13日(文永10年5月27日)。鎌倉幕府第7代執権(在職 1264年 - 1268年)。父は北条義時、母は後妻で伊賀朝光の娘。妻は将軍九条頼経の娘、三浦重澄の娘。子に北条時村、北条政長、北条政頼、北条宗房、北条政方、北条実時室、北条宗政室、安達顕盛室、北条業時室、北条時茂室ほか。初代執権・北条時政の孫。源頼朝室北条政子の甥にあたる。幼名は相模四郎。
1224年、母と母の兄である伊賀光宗は、義時が病に倒れたのを機会に娘婿の藤原実雅を将軍にし、政村を執権にする陰謀を企てた(伊賀氏の変)。これは、事前に発覚し政村も連座するところであったが、兄・北条泰時の取り計らいで累は及ばなかった。
成人後、1239年に35歳で評定衆となり、翌年には筆頭となる。1249年に引付頭人、1256年に連署になる。1264年7月に執権の北条長時が死去し、8月に執権に就任。連署は北条時宗らに補佐され、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わっていると考えられている。
翌年に蒙古国書が到来すると、1268年に執権職を北条時宗に譲り、再び連署として補佐、侍所別当も務める。1273年5月に常葉上人を戒師に出家し、常盤院覚崇と号し、同月に69歳で死去。連署は北条義政が引き継いだ。