楊忠は北魏が[ A ]・[ B ]に分裂する際(後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)に宇文泰に従って[ A ]の建国に貢献し、大将軍を勤め、随国公の地位を得ていた。

568年に楊忠は死去し、子の[ C ]が大将軍・随国公の地位を受け継いだ。北周は武帝の治世の元で宿敵の北斉を滅ぼすことに成功し、更に南の陳を滅ぼす前段階として北の突厥への遠征を企図していたが、576年に病死した。

武帝の後を継いだ宣帝は奇矯な人物で、五人の皇后を持っていた。このうちの一人が[ C ]の長女である麗華であり、麗華は宇文闡を生んだ。後の静帝である。

宣帝の奇行は留まる所を知らず、在位八ヶ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を名乗って政務を放棄したので、静帝の後ろに立つ楊堅への声望が高まっていった。580年に宣帝が死去すると[ C ]は摂政として全権を掌握した。

これに反発する武川鎮軍閥内の有力者たちは[ C ]に対して反乱を起こす。この中でもっとも大規模なものが尉遅迴によるもので一時は[ C ]の抑える関中地域以外の全てで反乱が起きるほどになったが、[ C ]は巧みにこれを各個撃破して北周内に於ける覇権を確固たるものとする。

同年末に隋国公から隋王へと進み、更に翌年に静帝より禅譲を受けて隋を建国する。

すでに北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたのだが、慎重な[ C ]は細かい準備を丹念に進めた。

まず北の[ D ]に対して長城を修復して防備を固める。そして淮河と長江を結ぶ運河を開鑿して補給路を確保、更にかつて南朝梁から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作る。

そして588年、[ C ]は遂に陳への遠征軍を出発させる。このときの遠征軍の総指揮官が楊広(後の[ E ])であり、51万8,000と言う過大とも思える大軍の前に、翌589年に陳首都・建康はあっけなく陥落し、陳皇帝・陳叔宝は井戸に隠れている所を捕らえられた。

ここに[ F ]滅亡以来、273年。[ G ]以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結したのである。

[出典]:wikipediaより改編。


A:西魏
B:東魏
C:楊堅
D:突厥
E:煬帝
F:西晋
G:黄巾の乱


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