後漢

後漢( 25年 - 220年)は、漢王朝の皇族[ A ](光武帝)が、[ B ]に滅ぼされた前漢を再興して建国。都は当初は洛陽に置かれ、最末期には長安・許昌へと遷都された。[ B ]により前漢は簒奪されたが、[ B ]の政治は[ C ]代を模倣したと言って、現実から遊離していたために国内は混乱し、外征でも失敗を重ね、収拾のつかない状態になった。この状況で山東省で[ D ]が勃発したのを皮切りに全国で反乱が起こり、最終的に南陽(現在の河南省南陽市)の豪族出身の光武帝により平定された。

自身が豪族の出身である光武帝は、他の豪族の力を借りて漢王朝を再興したため、後漢の皇帝は豪族の意向を無視できなくなり、後漢は結局最後まで豪族連合体の体質から脱却できなかった。

光武帝と2代目明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。外戚は長い間権勢を振るい続けたが、宦官の協力を得た11代目[ E ]に外戚梁冀が誅殺されてからは宦官が権力を握るようになった。

外戚、宦官を問わずにこの時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の[ F ]を首領とした黄巾党の乱であり、全国に反乱は飛び火し、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。

その後は、曹操や劉備らが争う動乱の時代に入り、後漢は一応存在はしていたが後漢最後の皇帝献帝が曹操の傀儡状態であった為に後漢の権力が無いも同然であった。220年、曹操の子曹丕により、[ G ](劉協)は禅譲を強要されて、後漢は滅びた。それに続けと劉備らが皇帝に即位し、以降三国時代に入る。

[ G ](劉協)は魏によって山陽公に封じられ、その死後孫の劉康が跡を継いだ。魏に取って代わった[ H ]でもこの待遇は引き継がれたが、劉康の孫である劉秋の代に、永嘉の乱で漢(匈奴)により殺害され、直系の子孫は絶えた。

[出典]:wikipediaより改編。


A:劉秀
B:王莽
C:周
D:呂母の乱
E:桓帝
F:張角
G:献帝
H:西晋


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