華厳宗

華厳宗というのは釈迦が悟りを開いた2日目に語った内容を記録した大蔵経のなかの『大方廣佛華厳経(Buddhavatamsakanama-maha-vaipulya-sutra)』通称華厳経を研究する学問。大方廣佛華厳経というは仏華厳と言う広大な経典のことを意味している。「仏華厳」は「無数の仏の集まりを華飾りにたとえた言葉」だという(梶山雄一『さとりへの遍歴-華厳経入法界品』)。華飾りの中心にいる仏をサンスクリット語で太陽を意味するヴァイローチャナ(vairocana)といい、華厳経では廬遮那、真言密教では大日と翻訳されている。

日本へは唐の道セン(702-60)によって初めて華厳経が736年にもたらされた。この華厳経を最初に講義したのは華厳五祖の第3祖の法蔵(643-712)の門下の新羅学生審祥。審祥は奈良大安寺にあって、良弁(ろうべん;689-774)が金鐘寺で始めた華厳経の講説で華厳の講師を勤めた。金鐘寺は後に良弁、橘諸兄、行基によって東大寺となった。そして、良弁は東大寺の初代別当となっている。東大寺は華厳経によって建立され、大仏の建立(743-749)は華厳宗の本尊の絶対的な毘盧遮那仏を表現している。中国の国分寺に倣ったとはいえ、東大寺を日本国総国分寺とし、さらに毘盧遮那仏を中核に据えて、聖武天皇は華厳経を国家統一の具体的中心としようとしたのである。

華厳経を記録したのは毘廬遮那仏とされる。

華厳経の教えは鎌倉時代に入ると、やがて、明恵上人(1173-1232)、道元禅師(1200-53)の思想の中にしっかりと生きていくことになる。明恵上人は華厳の考えに密教の考えを加え、当時、流行していた末法思想に対して正伝の仏法を唱え、道元禅師は天台本覚の思想の中に華厳を位置づけた。中国大陸では唐の時代に華厳宗第四祖澄観(738-839)が華厳と禅との橋渡しを図ったように、日本では明恵上人が、丁度、華厳と禅の橋渡しをしていると言える。

なお、華厳宗は南都六宗の一つに数えられている。

2007年4月30日(月) 改稿


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