大町

現在は大町、材木座と呼ばれている辺りの東半分は、かつては「名越」と呼ばれていた。名越流北条氏の名越だ。名越には名越の切通しがあり鎌倉の入り口に位置する。旧東海道、つまり鎌倉幕府成立以降の鎌倉街道は名越の切通しから鎌倉を後にして逗子の沼浜(ぬはま)に通じていた。その先は三浦半島であって名門三浦一族の本拠地。

鎌倉幕府の創設時に鎌倉に隣接して大きな武力を持っていたのは三浦一族しか存在していなかった。その意味で、名越の切通しは三浦一族の万が一の侵攻の際に鎌倉を防御する軍事要塞の意味合いも持っていたという。

そして、伊豆から拠点を鎌倉に移した鎌倉北条氏の初代北条時政が邸宅を構えたのも名越。

嫡男の第2代執権義時は大倉と小町に居を移したが、北条政子の産所として利用されたため「浜御所」と呼ばれた名越の時政邸は「名越山辺山庄(さんしょう)」として受け継がれた。

北条氏の名越邸は第2代執権義時の子の朝時に受け継がれ、名越流として時章、公時に相伝。「名越亭」として知られていた。現在、釈迦堂切通しの横に北条時政名越山荘跡と呼ばれる場所がある。しかし、吾妻鏡に名越山庄が新善光寺(現在は葉山町上山口に移転)の近くにあったとの記述があり、そのことから弁ヶ谷にあったというのが有力。


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