与謝蕪村宅跡

路地をこゆるりと歩くのは良いもの。何が良いといって、目的地以外に意外なところを「発見」したりするハプニングがあるというのが良い。醒ヶ井通りから東へ東へと松原通りやら仏光寺通りやらを巡っていると発見したのが「与謝蕪村宅跡」。

摂津国東成郡毛馬村、現在の大阪市都島区毛馬町に生まれた与謝蕪村は江戸で早野巴人の内弟子として俳句の研鑽を積んだ後に関東地方などを経巡った。そして、1751(寛延4)年に京都に足を踏み入れ、浄土宗総本山知恩院近くに住んだという。それからずっと京都に腰を落ち着けたというとそうではなくて、どうも、黛まどかさんもそうだが俳句をする人というのは旅好きなのだろうか、宮津へ行って見性寺で今度は絵の勉強をする。この時、36歳を越えているのに、俳句一筋ではなくて絵までやってみようということを実行に移すというのは凄い。

修行に明け暮れて京都に再び戻ってきたのが42歳の頃。この時に姓を谷口から与謝に改めて結婚もしているという。現代では、成人したら直ぐにでも「きちんと一つのところに」就職して、結婚して子供を作れ、そういうコースに乗っていないとニートだ、パラサイトだと騒がしいが、与謝蕪村も42歳までニートだったということになる。そういえば、江戸時代の第8代将軍徳川吉宗は結構な年までパラサイトだったし、幕末の大老井伊直弼も部屋住みでブラブラのニート。鎌倉幕府を打ち立てた源 頼朝も30代まで定職に就かないニートだったし、義経も行き場の無い怒りを抱えて鞍馬の山を駆け巡るだけのニートだった。彼らがニートじゃなかったら今の日本は無かったかもしれない。

少し脱線。ブラブラしていた与謝蕪村、俳句と絵画で生計を立てていくようになり、結婚して住まいを確保した。何度かの引越しの後で、漸く気に入ったのが仏光寺烏丸西入町だった。現在の釘隠町。蕪村の宅のあった路地は昭和36年まではあったということだが、今では路地はなくなっている。


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