真乗院

南禅寺の塔頭。1436(永享8)年に山名持豊が香林宗簡の塔所として開いた寺院。山名持豊(宗全)は1473(文明5)年3月19日に亡くなり、ここに葬られた。応仁の乱で西軍を率いた宗全の諡号は遠碧院。宗全が亡くなってから50日も経たないうちに東軍の細川勝元も亡くなっている。

山名氏は新田氏の流れを汲む一族で、新田義重の子の義範が上野国多胡郡山名に根を張って山名氏を称したのが始まり。政氏、時氏の代に政氏の妻が足利方の上杉重房の娘であった関係から、惣領家の新田義貞ではなく足利高氏に従った。一時、時氏が出雲守護に任ぜられるが離反。第2代将軍義詮に帰参して因幡、伯耆、丹波、丹後、美作5ケ国守護となっている。更に、時氏の長男の師義が丹後、伯耆守護職を、次男の義理は紀伊守護、三男の氏冬は因幡守護、四男の氏清は丹波、山城、和泉守護、五男の時義は美作、但馬、備後守護となったことに加えて、師義の子満幸が播磨守護職も得たため、日本全国68州のうち11ケ国が山名氏一族の守護領国となったために「六分一殿」あるいは「六分一家衆」と呼ばれるまでに栄華を極めた。

しかし、1371(建徳2・応安4)年に山名時氏が亡くなる没すると、兼ねてから大守護勢力削減策を練っていた第3代将軍義満は、氏時の子の氏清と氏清の弟師義の子の満幸に命じて、氏清の弟時義の子の時煕と氏幸を幕命に従わないとして追討させる。これに対して、時煕と氏幸が足利義満に取り入って逆に氏清を討とうとする。事がここに及んで、満幸が氏清と氏清の兄の義理とともに挙兵1391年([明徳の乱]元中8・明徳2)。しかし、室町幕府側は大内、畠山、細川氏によって山名氏を京都内野の戦いで氏清を敗死させ、満幸も1394(応永元)年に出雲で討たれた。山名領は大内、畠山、一色、赤松に与えられ「六分一殿」と呼ばれた山名氏の勢力は大きく縮小され、わずか3ヶ国となった。

後に、幕府側で戦った時熙が但馬国守護職から備後・石見・安芸・伊賀の四ヶ国の守護職を得るに至って、氏幸の伯耆国、氏冬の因幡国と合わせて、ようやく7ヶ国まで回復している。

そして、時熙の子の持豊(宗全)の時代となるのだが、応仁の乱で再び衰退していくことになる。


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