2003/1/5 (日) 

 新年に 創業者の 残したお年玉 株主と 権利争う 会社かな 
 「佐川急便」が京都九条署に商業登記の無断書替えが行われたとして、公正証書原本不実記載を告訴したという。背景には、元会長が株式譲渡には取締役会の承認が必要だったところを、その承認なしで譲渡したことが背景にあるとされている。
平成の御家騒動、勝負は司法の場へといったところか。
  世に争いは絶えねども 新年を 祝うムードも 悪夢と化す
 新しい年は、何はともあれ、皆で一先ずは祝いたい。そういうささやかな考えも中東のテロに掻き消されてしまった。戦争はいけないことであることは誰でもが理解出来る。しかし、その戦争でさえも最低限のルールというものがあるはずではないのかと、思いたい。


2003/1/4 (土) 

 事故は減り 法は効果を奏するも 失われる 命の重さ 変わることなし
昨年は、法令改正の影響で交通事故死の件数が減少したという。確かに総数で減少してはいても、犠牲者・被害者が存在しているという事実には少しも変わりがない。
今年の正月は、大型連休となったが、その楽しいはずの連休中にも、高速道(中央自動車道上線・初狩)で一家四人が犠牲になってしまった。スリップ事故で車外に出ていたところを、後続車に撥ねられたという。楽しい一家団欒が無残にも打ち砕かれてしまったことに言葉もない。
 列島の 冬将軍も一休み 緩みにゆるりと 初詣
 元旦も少し雪が降った。2日は、かなり雪が降った。そして、3日も雪が舞った。雪というのを口実に出不精を決め込んでいた。ところが、今日は、用事がなくとも出かけたい気分になる。


2003/1/3 (金) 

 スプレーは 店の素性も 磨き出し
 この男、何をしようとしたのだろうか?お店の人の対応に切れたのだろうか。あるいは、何かを目的とした計画的な犯行なのだろうか。近頃は体感治安が悪化しているから、催涙スプレーを持っていたというだけで不審ということは出来ないだろう。
 いづれにせよ、正月の歌舞伎町での椿事。
 この「歌舞伎町元旦傷害事件」、被害にあった店が風営法の禁止区域での営業ということで警告されるという置き土産を残した。


2003/1/2 (木) 

 学生に 振られて 生協解散し
 明治大学の解散した生協が出資金を返金できない状況だという。少子化の影響かと思ったけれども、どうもそうではないらしい。新入生の加入率がゼロというのはどう考えても尋常ではないだろう。


2003/1/1 (水) 

明けましておめでとう御座います。
今年は、江戸幕府が開かれてから400周年ということで、江戸城の写真と開府までの武蔵国の年表を掲載しました。その東京では43年振りの雪の元旦になるとか。

 改革者 制度憎んで 闘うも 天下をとれば デジャヴューか
 何事も初心を貫くのは難しいということ。
 ゼネストは 原油価格に エネルギー
 ベネズエラのゼネストが尾を引いている。米国は当初の方針を転換し不介入。年を越しても収まりそうに無い。このため、イラク問題で上昇圧力のかかる原油価格がじわりと上がりつつある。
 伯剌西爾(ブラジル)の 今太閤の 初日の出
 ブラジルで工場労働者出身のルーラ・ダシェルバ(Luiz Inacio Lula da Silva)氏が大統領に就任。難局にあるブラジル経済の舵取りの手腕が試される。
[参考サイト]ブラジル大使館 ブラジル大統領府

[江戸開府までの武蔵国年表]
天平宝宇年間 757- 武蔵国分寺(現東京都国分寺市)が建立される。
宝亀2年 771 武蔵国が東山道から東海道に。
貞観3年 861 各郡に検非違使が置かれる。
延喜9年 909 立野牧が勅使牧になる。立野牧は現在の東京都東大和市立野近辺とされる。
天慶2年 939 平 将門、叛乱す。
天永4年 1113 武蔵七党の横山党が内記太郎殺害容疑で追捕される。
治承4年 1180 源 頼朝江戸重長に武蔵国諸雑事を命じる。
元久2年 1205 坂東平氏秩父氏惣領畠山重忠北条時政により誅殺される。後、畠山家は足利流となる。
嘉禄2年 1226 河越重員が武蔵国留守所総検校職に任命される。寛喜3(1231)年、検校職に関する職権4ヵ条に関する明法勘状が日奉(ひまつり)実直物部宗光によって提出される。
正和2年 1313 江戸重通vs江戸政重訴訟で重通が家督を勝ち取る。
正慶2年 1333 新田義貞軍、鎌倉幕府軍と「久米川の戦い」(現八国山将軍塚)、「分倍河原の戦い」を戦う。
建武2年 1335 足利直義軍、北条時行率いる北条軍と府中で戦う[中先代の乱]。
文和元年 1352 新田義興軍、武蔵野合戦[人見ヵ原の戦い]で足利尊氏軍を破る。
延文3年 1358 新田義興、多摩川の矢口の渡しで江戸遠江守に謀殺される。
応安元年 1368 平一揆。坂東平氏、武蔵七党の多くが参加。これにより武蔵武士の名門の多くが没落する。
この頃以降、大石氏が守護代として勢力拡大。
応永23年 1416 「上杉禅秀の乱」に武蔵国が揺れる。豊島氏および南一揆は鎌倉府の足利持氏軍に加勢。南一揆は多摩の中小武士団の連合軍で、その中には武蔵七党の流れを汲む立河雅楽助(多西郡土淵郷[現日野市])の名が見える。
永享10年 1438 鎌倉公方足利持氏が関東管領山内上杉憲実に敗れる(「永享の乱」)。
享徳3年 1454 鎌倉公方足利成氏(持氏四男)が山内上杉憲忠を謀殺。「享徳の乱」が勃発する。
康正元年 1455 太田資長、江戸城築城開始。元江戸城が現在の千代田城の中。
文明8年 1476 長尾景春、上杉家に叛乱(「長尾景春の乱」)。
翌年、景春党
豊島泰経太田資長(後の道灌)が沼袋原で戦う。豊島氏は石神井城より出陣、太田氏は沼袋城に布陣(現沼袋氷川神社)。豊島氏は大敗を喫し多数の戦死者を残し平塚城に撤退。平塚城落城とともに小机城に篭城するも、要害小机城も太田氏により落城。これによって豊島宗本家は滅亡する。
長享元年 1487 山内上杉家と扇谷上杉家が覇権を競い戦う[長享の乱]。
関東とりわけ武蔵国は、「禅秀の乱」、「永享の乱」、「享徳の乱」、「長尾景春の乱」によって動揺し、さらにこの「長享の乱」によって荒廃を極めた。
永正元年 1504 立河原の戦い」で扇谷上杉朝良軍、今川氏親伊勢宗瑞軍が山内上杉顕定軍を破る。伊勢宗瑞は、後の後北条早雲
大永4年 1524 北条氏綱が「高輪原の戦い」で、扇谷方の江戸太田資高と呼応し、扇谷上杉朝興を下し江戸城入城。扇谷上杉朝興は河越城へ敗走。江戸城には遠山直景富永弥四郎を据える。
永禄4年 1561 北条氏康上杉謙信方の三田綱秀(現東京都国立市保谷三田館)を討つ。
天正11年 1583 北条氏照が品川住民に対して「人返し令」発布。
天正18年 1590 北条軍の八王子城が豊臣軍の前田利長らにより落城。この年、三河の徳川家康が江戸に移封される。家康は樽屋藤左衛門奈良屋市右衛門を町年寄に任命、江戸の都市開発が開始される。
慶長8年 1603 江戸開府。