[貞永式目]

 「初めての成文の武家法で、なおかつ鎌倉時代はもちろん、室町時代においても基本法典とされ、遥かに下って戦国時代の分国法にも大きな影響を与えたのが貞永式目ね。」
 「貞永元(1323)年に北条泰時が制定したんだけど、全く独自に条文を規定したというよりは、右大将の例によると述べられているように、先例を成文化したという性格を持つね。
 武家社会の特徴である「道理」と、源頼朝以来の「先例」を基礎とする法令だ。
そういうわけで、公家法といわれた律令法系や荘園などで適用されていた本所法とは異なるけれども、デファクトな規定が多く含まれているね。」
 「そうね。鎌倉時代の刑罰はいわゆる庁例の、つまり検非違使庁の例の刑罰だしね。
 それから、式目っていうのは、本来目録と名づけるべきだったのを、神仏・政治についての法令も載せたというので式条としたものを、さらに親しみやすく式目としたものよね。」
 「そうだね。
 この式目が公布された当時は京都を中心に反対する勢力が少なくなかったんだよね。
それは、それまでの律令が一部の法明家などの専門家でしか熟知していないような難解なもので、訴訟を起こそうにも判決を想像することが困難で、そのために一々専門家に尋ねなければならないという状況に原因があるよね。」
 「体系的だけれども一般に考え方が完全に普及しているとは言えない律令を重視するのか、事実上のルールとして広まっていた武家法を重視するのかっていう対立よね。」
 「貞永式目の内容としては守護の職務の規定がまず特徴として挙げられるわね。 守護とはいっても、後の戦国時代における守護大名のように大きな権限を持ってはいなくて、守護する国の御家人の管理を行うだけの名誉職に近いものだったというのは、まず注意が必要だけど。」
 「大犯三ヶ条が含まれている条文よね。 ここで、守護による地頭まがいの荘園収益の収用を禁止している。
禁止しているってことは、既にこの時代に守護が単なる名誉職のようなものではなくて土地からの収益権を持つようなものに転化していたということが考えられるわね。
そういう状況をもとに戻そうとしたのね。」
 「地頭についても、『年貢を拘留するの由、本所の訴訟有らば、則ち結解を遂げ勘定を請くべし。犯用の条、若し遁るる所無くば、員数に任せてこれを弁償すべし。但し、少分に於いては早速沙汰を致すべし。過分に至っては三カ年中に弁済すべきなり。』って規定して本所の年貢などを収用することを諌めているね。」
 「なによりも、律令の規定と比較して際立った違いというのは、取得時効の規定かしらね。
 律令の法体系には取得時効なんていうような概念はなかったから、この20年を経たら占有者に所有権が帰属するなんていう規定は完全に武家法の特徴として挙げることが出来るわね。」

[参考] 式目条文(一部)