北条時宗
鎌倉幕府の8代執権。
北条氏の得宗家に生まれ、元の日本に対する圧力が高まる中で執権に就任し、得宗権力の強化や、元寇への対応を行う。生前は正四位下相模守。没後、贈従一位。
1251(建長3)年5月15日、相模国鎌倉、安達氏の甘縄邸に産まれる。異母兄に宝寿丸(北条時輔)がいたが、側室の子(庶子)であったため、父の時頼から後継者に指名された。1257(康元2)年、鎌倉宮将軍の宗尊親王より一字を賜り、時宗と改めて元服。60年には宮将軍の供奉などを務める小侍所へ入り、61年4月には安達義景の娘の堀内殿と結婚。極楽寺での武芸大会で宗尊親王から褒め称えられた逸話もある。同年には従五位下左馬権頭に叙任。
1264(文永元)年7月、執権の北条長時が出家、北条政村が執権となり、8月には時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。翌年、従五位上に昇叙。同年、但馬権守、更に相模守をも兼任する。第7代執権である北条政村や一族の重鎮・北条実時と協力して、1266(文永3)年に幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位と京都送還、惟康親王の擁立などを行った。1268(文永5)年正月、朝鮮半島の高麗の使節が中国の元朝の国書を持ち博多の大宰府へ来日、モンゴル帝国への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月には政村から執権職を継承し、第8代執権となる。
時宗は政村や北条実時、安達泰盛、平左衛門尉頼綱らに補佐され、幕府では蒙古国書に対する返牒など対外問題を協議し、異国警護体制の強化や、降伏の祈祷など行わせる。翌71年には再び使節が来日し、武力侵攻を警告すると、少弐氏をはじめとする西国大名に対元の戦争準備を整えさせて対外政策を行う。同年、左馬権頭を辞任。
また、得宗家の権力を磐石なものとするため、1272(文永9)年には弟の時宗が執権になったことに不満を持って京都の朝廷に接近していた六波羅探題南方の兄・時輔や、一族の評定衆の名越時章を誅殺している(二月騒動)。1274(文永11)年には、『立正安国論』を幕府に上呈した日蓮を佐渡に配流した。
1274(文永11)年、モンゴル帝国軍が日本に襲来した。いわゆる元寇であるが、この時の日本軍は元軍の集団戦法や新兵器などに苦戦したが、暴風雨の到来とも言われる蒙古軍の撤退で回避された。翌年、降伏を勧める元使・杜世忠らが来日すると、鎌倉で引見し、処刑する。その後、時宗は高麗出兵を考えていたようだが取りやめて、異国警固番役などを新たに設置して国防を強化し、この文永の役を教訓として博多湾岸に今でも残る石塁を構築した。また、北条一族が九州などの守護に相次いで任命されている。
このため、1281(弘安4)年の弘安の役では、作戦指示が時宗の名で出され、得宗被官が戦場へ派遣されて指揮にあたった。元軍は最終的には暴風雨で追い返されたとはいえ、石塁などで防御が強化された日本軍の抵抗に苦戦したと言われている。
こうして時宗は元軍の襲来という国難を回避したが、戦後に今度は御家人などに対する恩賞問題などが発生したり、三度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化せねばならないなど、難題がいくつも積み重なっていた。同年、正五位下に昇叙。1284(弘安7)年には病床にあったとされ、4月4日には出家し、同日に34歳で病死。自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られた。