日輪山真如寺

蘭人ヘンミの碑を見た後、再び逆川のほうへと戻り、今度は奥姫橋の一つ東の先の笠屋橋を渡る。正面に小さなこんもりとした丘の茂みが目に入る。そこが真如寺。曹洞宗日輪山真如寺。山内一豊が1590(天正10)年に叔父の在川謙昨大和尚を駿府の長源寺から招請して開創した寺だ。実は同じお寺は土佐にもあり、そのお寺は一豊が土佐一国の国持大名となった時に掛川の地から移転したものという。さしずめ、掛川の真如寺は元真如寺といったところだろう。このお寺には面白いエピソードがある。会津への出陣の際に一豊が占うと、「出陣すれば家に帰らず」と出たので和尚に相談すると、「小国に戻ることは凶だが、大国に移ろうと思うには吉である。」との返事を得て、後の土佐一国を領することに繋がったのだという。

しかし、掛川の真如寺は土佐山内家ゆかりの寺では終わらない。山内家の後に掛川に入った松平定勝、この人は徳川家康の異父弟にあたるが、その崇敬も集め、巨山聚鯨大和尚が真如寺を承継した。その定勝の嫡男の定吉は1603(慶長8)年突如として切腹して果て、真如寺の開基として祀られている。なぜ、定吉が突然に切腹したのか真相は明らかではないが、田宮虎彦の小説『鷺』では、家康の面前で鷺を射落としたが、家康に「無駄な殺生」だと叱責されたのが直接の原因とされている。自照院殿と号された定吉は寺墓地のほぼ中央の霊廟に祀られている。墓標には、「為自照院殿前遠州大守甲英額大居士也、于時元和七(1621)年七月十一日)、釈氏立之」と刻まれている。また、真如寺には父の定勝が描かせたという定吉の肖像画が伝えられている。


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